男女の友情はあるのか。“無い側”として生きてきた俺の話

◆男女の友情はあるのか。“無い側”として生きてきた俺の話

俺はずっと、男女間に友情はあり得ないと思ってきた。

もちろん、女性を避けてきたわけではない。女性と話すこともあったし、遊びに行くこともあった。自分で言うのも変だが、俺も一応、男性の末席には座っていたつもりだ。だから、女性との関係がまったく無かったわけではない。

ただ、俺の場合、女性と知り合って、一緒に遊ぶとなると、かなり分かりやすく“おもてなし”をしていた。

どこに行くかを考え、何を食べるかを考え、相手が退屈しないように気を配る。車を出すこともあったし、金銭面でも自分が持つのが当たり前だと思っていた。今思えば、それは単なる親切ではなかった。

暗に、

「俺はあなたを女性として見ています」

という意味だった。

しかも、相手がそう受け取ってもおかしくないくらい、かなり露骨だったと思う。

俺の中では、女性にそこまでの労力を使うということは、すでに“ただの友達”ではなかった。男友達と適当に飯を食う感覚とはまったく違う。女性に対して丁寧に接する。女性として扱う。守るべきものとして見る。そういう意識が最初からあった。

だから俺は、男女の友情というものが分からなかった。

友達なら、そこまでしない。

でも女性なら、そうしてしまう。

その時点で、俺の中ではもう友情ではなかったのだと思う。

◆女性は守るものだと思っていた

昔の俺は、女性は弱いもの、守ってあげるものだと思っていた。

今の時代にそのまま言えば、少し古い考え方に聞こえるかもしれない。女性を下に見ていたわけではない。むしろ逆で、大切にしなければいけない存在として見ていた。

重い荷物は持つ。お金はなるべく自分が出す。移動も楽にしてあげる。寒ければ気遣う。疲れていないかを見る。相手がどう感じているかを気にする。

それが男として当然だと思っていた。

ただ、今になって思う。

それは優しさでもあったが、同時に相手へ“選択”を迫る空気でもあったのではないか。

なぜなら、こちらが最初から女性として扱っているからだ。

相手からすると、

「この人は私を友達として見ているわけではない」

ということが、かなり早い段階で分かる。

そうなると、女性側も自然と考える。

この人を恋愛対象として見るのか。距離を置くのか。期待を持たせないようにするのか。曖昧なまま会い続けていいのか。

つまり、俺の接し方は、優しいようでいて、相手に関係性を決めさせる圧を与えていたのかもしれない。

当時の俺は、そこまで分かっていなかった。

女性に丁寧に接している。
女性を大切にしている。
男として当然のことをしている。

そう思っていた。

でも、それが相手にとって軽いものではなかった可能性はある。

◆会社で女性と長く話せなかった理由

この考え方は、日常生活にも出ていた。

たとえば会社に女性がいる。普通に話しかける。仕事の話から少し雑談になる。会話が長く続く。

そうすると、俺は途中で考えてしまう。

「これは恋愛に発展するんだろうか」

もちろん、会社で少し話したくらいで恋愛になるわけではない。そんなことは頭では分かっている。

でも、女性と長く話すということ自体が、俺の中ではどこか“関係性の入口”だった。

相手を知る。相手に自分を知ってもらう。会話が増える。距離が縮まる。

その先に何があるのかを、どうしても考えてしまう。

そして、

「いや、たぶん恋愛には発展しないだろう」

と思うと、それ以上は深く話さなくなる。

これは今考えると、かなり不器用だ。

普通に会話を楽しめばいい。職場の人間関係として自然に接すればいい。女性だからといって、毎回その先を考える必要はない。

頭ではそう思う。

でも俺の中では、女性との距離が縮まることには意味があった。

そして、その意味が恋愛に向かわないなら、必要以上に踏み込まない方がいいと感じていた。

相手を勘違いさせたくない。
自分も期待したくない。
面倒なことになりたくない。

そんな気持ちもあったのかもしれない。

ただ一番大きかったのは、俺が女性との関係を“ただの雑談”として処理できなかったことだと思う。

今なら少し分かる。

男女の友情とは、異性であることを消すことではない。

異性であることを理解した上で、距離を保つことなのだと思う。

ただ、昔の俺にはそれができなかった。

◆好きになると、相手の生活に入り込んでいた

俺の恋愛には、あるパターンがあった。

好きになる。付き合う。どこかのタイミングで、相手の家に転がり込む。

そして、さらに付き合いを深くしていく。

これは、俺にとって恋愛が“会うこと”だけではなかったからだと思う。

たまにデートする。
食事をする。
映画を見る。
手をつなぐ。

そういう恋愛だけでは、どこか足りなかった。

俺にとって本当に深い関係とは、生活を共有することだった。

同じ部屋で過ごす。相手の生活リズムを知る。寝起きの顔を見る。何でもない時間を一緒に過ごす。買い物に行く。飯を食う。だらだら話す。

そういう日常の中に入っていくことで、初めて関係が深くなったと感じていた。

今思えば、かなり距離の詰め方が早かったのかもしれない。

でも当時の俺には、それが自然だった。

好きなら近づきたい。
好きなら一緒にいたい。
好きなら相手の生活の一部になりたい。

そう思っていた。

逆に言えば、軽い関係が苦手だった。

会う日だけ恋人。
普段は別々。
お互いの生活には踏み込みすぎない。

そういう距離感が、俺には少し難しかった。

俺は恋愛を、かなり人生側に寄せて考えていた。

相手を好きになるということは、相手を自分の人生に入れることだった。

そして、自分も相手の人生に入っていくことだった。

だからこそ、女性と少し長く話すだけでも、その先を考えてしまっていたのだと思う。

◆札幌から室蘭へ女性を連れて行っていた頃

北海道に住んでいた頃、札幌にいた俺は、よく女性を車に乗せて、実家のある室蘭へ連れて行っていた。

今から考えると、ちょっとアホやんと思う。

いや、ちょっとではない。

かなりアホだったかもしれない。

札幌で知り合った女性を車に乗せて、実家のある室蘭まで連れて行く。

距離感としては、なかなか重い。

でも当時の俺には、それがそこまで不自然ではなかった。

自分の地元を見せたい。
自分の育った場所を知ってほしい。
自分の世界に入ってきてほしい。

そんな気持ちがあったのだと思う。

単なるドライブではなかった。

俺にとって室蘭は、自分の根っこのような場所だった。

そこへ女性を連れて行くということは、自分のかなり内側を見せることでもあった。

親に紹介するというほど大げさに考えていたわけではない。

でも、結果的にはそうなっていた。

親からすれば、

「また女の人と遊びに来た」

と思っていたはずだ。

そして同時に、

「ちょっと相手を見定めてみよう」

とも思っていたはずだ。

実際、その後に電話で言われたり、面と向かって言われたりした。

「あの人はやめた方がいい」

「気が利かない」

「あの感じは合わない」

そんな意見が、結構出ていた。

当時は、少しうるさいなと思ったこともあった。

でも今考えると、親は親なりに俺の性格を理解していたのだと思う。

俺は、女性と軽く遊んで終わるタイプではない。

好きになれば深く行く。
距離を詰める。
生活に入る。
自分の世界に連れてくる。

だから親は、相手女性をただの友達として見ていなかったのだと思う。

この子は、この女性を本気で自分の人生に入れるかもしれない。

そういう目で見ていたのではないか。

◆親は俺の性格を分かっていた

親というのは不思議なもので、本人が自分で分かっていないことまで見ている。

俺の両親は、知らず知らずのうちに、俺の性格を理解していたのだと思う。

俺は一度人を好きになると、距離が近くなる。

関係を浅いまま置いておくことが苦手だった。

恋愛を恋愛だけで終わらせず、生活や家族や地元まで巻き込んでいく。

だから親は、相手女性を見る時も、単に愛想がいいかどうかだけを見ていたわけではないのだと思う。

この人は俺と合うのか。
俺の変わった部分を受け止められるのか。
一緒にいたら俺がしんどくならないか。
逆に、相手がしんどくならないか。

そういうところまで、見ていたのかもしれない。

「あの人はやめた方がいい」

という言葉は、当時の俺にはただの否定に聞こえた。

でも今なら、少し違って聞こえる。

それは、俺の性格を分かっている人間からの警告だったのかもしれない。

俺は、自分で思っている以上に、関係へ深く入ってしまう。

相手を大事にしようとする。
守ろうとする。
生活に入ろうとする。
家族にも近づけようとする。

だから、合わない相手と深くなると、かなりしんどい。

親はそこを見ていたのだと思う。

◆俺はかなり変わった性格なのかもしれない

俺は、自分でも少し変わった性格だと思う。

いや、少しではない。

かなり変わっているのかもしれない。

女性をただの友達として見られない。
長く話すと、その先を考えてしまう。
好きになると、相手の生活に入り込んでいく。
自分の地元や家族の近くまで連れて行ってしまう。

こうやって書くと、なかなか面倒な男だ。

でも、俺の中では全部つながっている。

女性を軽く扱えなかった。
関係を軽く扱えなかった。
好きになった相手を、ただの楽しい時間だけで終わらせたくなかった。

それは誠実さでもあったと思う。

ただ同時に、重さでもあった。

誠実さと重さは、紙一重だ。

自分では大切にしているつもりでも、相手には負担になることがある。

守っているつもりでも、相手には選択を迫っているように感じられることがある。

優しくしているつもりでも、相手には「この人は私に何かを求めている」と伝わることがある。

昔の俺は、そのあたりの境界線がよく分かっていなかった。

男としてちゃんとしなければいけない。
女性を大切にしなければいけない。
好きなら深く関わらなければいけない。

そんな思いが強かった。

でも、人間関係はそれだけではうまくいかない。

大切にすることと、距離を詰めることは違う。

守ることと、相手の自由を奪わないことは両立しなければいけない。

好きでいることと、相手に選ばせる余白を残すことも大事だ。

そのことに、俺は少しずつ気づいてきたのだと思う。

◆男女の友情は、成熟した男ならあり得るのかもしれない

今でも、男女の友情が簡単に成立するとは思っていない。

男と女が近づけば、そこには何かしらの感情が生まれる可能性がある。

相手を魅力的だと思うこともある。
一緒にいて楽だと感じることもある。
もっと知りたいと思うこともある。

そこに異性としての意識がまったく無いと言い切るのは、俺には少し難しい。

ただ、今は少し考えが変わってきた。

男女の友情とは、異性であることを無かったことにする関係ではない。

異性であることを理解した上で、距離を保つ関係なのだと思う。

この人は女性である。
自分は男性である。
そこには当然、意識の違いもある。

それでも、恋愛に持ち込まない。
期待を押しつけない。
相手の人生に勝手に入り込まない。
会話そのものを楽しむ。
人として尊重する。

そういう成熟があれば、男女の友情はあるのかもしれない。

ただ、昔の俺には無理だった。

女性と距離が縮まると、その先を考えてしまう。
恋愛にならないなら、引いてしまう。
好きになれば生活まで近づいてしまう。

だから、俺が今まで女性と友情を築けなかったのは、女性側の問題ではない。

俺自身の距離感の問題だったのだと思う。

◆映画を観るように、自分の過去を見返す

映画を観ていると、主人公の不器用さに腹が立つことがある。

なぜそこで言わない。
なぜそこで踏み込みすぎる。
なぜそこで相手の気持ちを考えない。
なぜそんなに極端なのか。

でも、自分の過去を振り返ると、人のことは言えない。

俺もずいぶん不器用だった。

女性を大切にしたかった。
でも、大切にする方法が少し重かった。

男として振る舞いたかった。
でも、男としての責任感が強すぎて、自然な関係を作れなかった。

好きになったら深く関わりたかった。
でも、深く関わることが、相手にとって必ずしも心地いいとは限らなかった。

札幌から室蘭へ女性を連れて行っていた自分を思い出すと、今では少し笑ってしまう。

何をそんなに急いでいたのか。
何をそんなに見せたかったのか。
何をそんなに分かってほしかったのか。

でも、その頃の自分を完全に否定する気にもなれない。

あの時の俺は、あの時なりに真剣だった。

軽く遊ぼうとしていたわけではない。
都合よく扱おうとしていたわけでもない。

ただ、関係を大事にしたかった。

大事にしようとするあまり、距離の取り方を間違えていたのだと思う。

◆これからの俺に必要なもの

これからの俺に必要なのは、女性を女性として見ないことではない。

それはたぶん無理だ。

女性は女性として見る。
魅力を感じることもある。
意識することもある。

それでいいのだと思う。

ただ、そこで一気に関係を決めようとしないこと。

恋愛になるかどうかを早く判定しすぎないこと。

相手を守る対象としてだけ見ないこと。

自分が何かをしてあげることで、男としての価値を証明しようとしないこと。

これが必要なのだと思う。

会話は会話として楽しむ。
関係は急がず育てる。
相手の自由を残す。
自分の感情も押しつけない。

それができるようになった時、俺にも“異性であることを理解した上で距離を保つ友情”が持てるのかもしれない。

それは、女性に冷たくなることではない。

むしろ、本当の意味で相手を尊重することなのだと思う。

男女の距離感と尊重を感じさせるイメージ
距離を置くことは、冷たさではなく尊重でもある

◆総括

俺は長い間、男女の友情は無いと思って生きてきた。

女性と接する時、最初から女性として見ていた。

遊ぶ時は丁寧にもてなし、金銭面でも自分が持ち、相手を守るように接していた。

それは俺なりの誠実さだった。

でも同時に、相手にとっては重さでもあったのだと思う。

会社で女性と長く話すと、その先を考えてしまった。
恋愛に発展しないと思うと、それ以上は踏み込まなかった。

好きになれば、相手の家に転がり込み、生活へ入り込んでいった。
札幌にいた頃は、女性を車に乗せて、実家のある室蘭へ連れて行くこともあった。

今思えば、かなり不器用だ。

でも、それが俺だった。

軽く関係を持てなかった。
好きなら深く行きたかった。
女性を大切にしたかった。
自分の世界に入ってきてほしかった。

親はそんな俺の性格を、俺以上に分かっていたのかもしれない。

だから相手女性を見て、

「あの人はやめた方がいい」

「気が利かない」

と、いろいろ言っていたのだと思う。

それは単なる口出しではなく、俺の距離感を知っているからこその言葉だったのかもしれない。

今の俺は、昔の自分を完全には否定しない。

ただ、もう少し成熟したいとは思う。

女性を女性として意識しながらも、すぐに恋愛へ結びつけない。

守ろうとしながらも、相手の自由を奪わない。

大切にしながらも、重くなりすぎない。

そういう男になれた時、俺は初めて、男女の友情というものを少し理解できるのかもしれない。

男女の友情があるかどうか。

その答えは、相手との関係だけで決まるものではない。

たぶん、自分自身がどれだけ成熟しているかで決まる。

昔の俺には無かった。

でも、これからの俺には、少しだけあり得るのかもしれない。