【内面磨き】映画と思考のあいだで、俺は言葉を探している

View of Mt. Fuji from Lake Tanuki in Fujinomiya City, Shizuoka Prefecture at dawn of winter.

このブログは、単に「好きになった人とうまくやるHow To」を配る場所じゃない。
もちろん、役に立つ技術や小技を否定するつもりもない。だけど俺が本当に残したいのは、
行動の背後にある意味と、そこから立ち上がってくる人生観だ。

行動には必ず、何らかの理由がある。たとえ本人にとって漠然としていても、
価値観、恐れ、期待、過去の経験が染みている。
それを「手順」だけに分解してしまうと、人生は急に薄くなる。
俺はこのブログで、経験をちゃんと回収して、言葉にして、
いつか「俺はこういう人間だ」と単刀直入に言えるようになりたい。

※ここに書くのは完成した答えじゃない。更新され続ける途中経過として残していく。
だからこそ、断言しすぎず、余白を残す。

◆俺の原点|「死」を考えた高校時代

高校のとき、先生が「今まで死ぬってことを考えたことのある人は?」と聞いた。
そして「全員、手を挙げて」と続けた。ところが、手を挙げていたのは俺だけだった。

俺はあのとき、特別なことをしたつもりはない。ただ正直に、自分の内側を確認しただけだ。
高校生にもなれば、将来を考える。進学、仕事、恋愛、家庭。その延長線上に「老い」や「終わり」がある。
そこに一度も目が向かないほうが、むしろ不自然だと思っていた。

死を考えることは暗さじゃない。生を軽く扱わないための準備だ。
自分が永遠じゃないと知った瞬間、時間の密度が変わる。選択が重くなる。
何を引き受け、何を捨て、何を守り、何を賭けるのか――その問いが、自然に立ち上がってくる。

◆大学で哲学を選んだ理由|答えより「系譜」

大学では教養学部にいて、哲学の単位を自発的に相当選んでいた。
理由は単純で、昔の人がどんな思想を持ち、自分の死を見つめ、それでも生を生きたかを学びたかったからだ。

答えが欲しかったわけじゃない。生き方のマニュアルを探していたわけでもない。
ただ、「自分だけが考えているわけじゃない」という系譜の中に自分を置きたかった。
思考が孤立しない場所を、探していた。

哲学は難しい。だけど、本当に響く思想は、理解より先に感覚として落ちてくることがある。
理屈じゃなく、地盤になる。世界の見え方が、静かに変わる。

◆「われ思う故にわれあり」|すべてが腑に落ちた

われ思う故にわれあり――(Cogito, ergo sum)

俺が「本当にそうだな」と思ったのは、この一文だった。
世界を説明しない。希望も与えない。生きる意味も保証しない。
ただ、すべてを疑い切ったあとに、それでも消えなかった一点だけを示す。

感覚は裏切るかもしれない。他人は幻想かもしれない。世界そのものが虚構かもしれない。
それでも、「今、考えているこの思考」だけは否定できない。疑っているという行為そのものが、
すでに存在の証明になってしまう。

その瞬間、世界は一度すべて白紙になる。唯一の確かな点として「考えている自分」が残る。
余計な前提が削ぎ落とされ、ここからしか描けない原点が見える。
俺にはそれが、全部が腑に落ちたように感じられた。

◆頭の良さとは何か|「言葉にできる」こと

俺が思うに、頭の良し悪しは、知識量や処理速度だけじゃない。
自分の思想や考えを、適切な言葉で表せるか――そこに知性の核がある。

言葉にできるということは、頭の中で思考が整理されているということだ。
感情と思想を切り分け、誤解される可能性を想像し、それでも言葉を選ぶ。
その営み自体が、思考への責任を引き受けている。

ただ一方で、人は「感じているのに語れない」瞬間がある。
それは無知だからでも、考えていないからでもない。
たぶん、まだ言葉を持っていないだけだ。
ここは今、結論を急がない。俺自身も、もう少し時間をかけて考えたい部分だ。

※このテーマは、いずれ別ページで深掘りする。今は「問い」として置いておく。

◆本を読む理由・映画を観る理由|アウトプット前提のインプット

俺が今、本を読むのは、自分の考えを言葉に出すためのインプットをしているからだ。
映画を観るのも、同じ理由だったりする。

考えは放っておくと形を持たない。「何かを感じている」だけでは、経験はすぐ霧散する。
だが、言葉に落とせたとき、経験は自分の一部として残る。
本は、他人の思考の構造を借りる行為だ。言葉の選び方、組み立て方、余白の残し方。
それらを追体験することで、思考の型が少しずつ身体に染みていく。

映画も同じだ。泣いた、驚いた、面白かったで終わらせない。
「何を問いとして差し出してきたのか」「どんな選択が迫られていたのか」
そういう視点で観ると、思考の射程が広がる。
そして最後に、自分の語彙で言い直した瞬間、それは俺の思想になる。

※「映画がなぜ特別なのか」についても、まだ言葉にしきれていない部分がある。
ただ一つ確かなのは、映画は“思考”と“感情”の両方で他人の人生を引き受けさせてくる、かなり特殊な装置だということ。
ここも、いずれ別ページで掘る。

◆このブログが目指すもの|How Toより「意味」を残す

このブログでやりたいことは、恋愛や人間関係の「正解手順」を配ることじゃない。
行動が「意味を剥がされた手順」になると、人生は薄くなる。
うまくいった行動には理由がある。失敗した行動にも背景がある。
そこを言葉にして回収したい。

意味は最初からはっきりしているとは限らない。むしろ多くは漠然としている。
だから、行動→結果→理解みたいな一直線では進まない。
行動→混乱→失敗→違和感→再解釈。そういう遠回りの連続だ。
その遠回りを経て初めて、経験は「自分のもの」になる。

俺が目指しているのは、格好いい言葉を並べることでも、論破の武器を持つことでもない。
単刀直入に、「俺はこういう人間だ」と言えるようになること。
好きな人とうまくやりたいという気持ちも、その延長線上にある。
自分の人生を、自分の言葉で説明できるようになったとき、行動はブレなくなる。
うまくいかなかったとしても、「なぜそうしたのか」を自分で引き受けられる。

◆夢を語れる自分でありたい

俺は、夢を持ったり、将来の自分を語ったりできる自分でありたいと思う。
夢は完成品じゃなくていい。大きくなくていい。輪郭がぼやけていてもいい。
ただ、語ることをやめない。

「われ思う故にわれあり」が残したのは、慰めでも救いでもない。
逃げ場のない一点だ。けど、その一点があるからこそ、未来に線を引ける。
夢とは、成功の約束ではなく、考え続けている自分が未来へ向けて線を引く行為だと思っている。
だから俺は、このブログを続ける。結論を急がず、余白を残しながら、言葉を積み上げていく。

◆関連ページ(枝)

このページは「幹」だ。ここから、枝を増やしていく。
深掘りは、今は“におわせ”として置いておく。結論は、あとから追記する。

※「言語化できないもの」「映画が特別な理由」は、まだ未完のまま置いて、ブログを続けるための余白として残す。

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このページで書いてきた〈言語化〉や〈思考の熟成〉と深くつながっている。