📝 映画コラム
――映画を「考えすぎない」ための場所
映画コラムという言葉は、少し曖昧だ。レビューとも違う。考察とも違う。ましてや人生訓でもない。
だからこそ、このページではまず、その曖昧さを否定しないところから始めたい。
シネマログには、すでにいくつかの軸がある。
作品を正面から評価する「映画レビュー」。
映画をきっかけに思考を深める「考察・思考」。
そこから抽出された価値観を扱う「内面磨き」。
内面を現実に翻訳するための「外見磨き」。
それらは、それぞれ役割がはっきりしている。
だからこそ、この「映画コラム」は、あえて輪郭をぼかした場所にした。
映画を観ていると、必ずしも「考察」にまで辿り着かない瞬間がある。
強烈な違和感もない。人生を揺さぶられるほどの体験でもない。けれど、なぜか頭の片隅に残る。
「あの台詞、今の時代っぽかったな」
「最近、こういう映画増えた気がする」
「昔なら、この描き方は許されなかっただろうな」
そういう、整理される前の感想。
言葉になる直前の、雑な思考。
この映画コラムは、そうした“途中の状態”を置いておくための場所だ。
考察・思考が「掘る」場所だとしたら、映画コラムは「眺める」場所に近い。
一本の映画を深く分析するよりも、複数の映画を並べて、なんとなく傾向を見る。
答えを出すより、問いの形を変えてみる。
たとえば、
なぜ最近の映画は説明が丁寧すぎるのか。
なぜ配信映画は似た後味になりやすいのか。
なぜ復讐というテーマは、何度も形を変えて繰り返されるのか。
こうした話題は、一作品の考察に落とし込むと重くなりすぎる。
かといって、何も考えずに流すには、少し惜しい。
その“中間”にあるのが、映画コラムだ。
ここでは、映画そのものだけでなく、映画を取り巻く環境や、語られ方、受け取られ方にも目を向ける。
映画館で観るという行為が、どれほど特別な体験になったのか。
倍速視聴が当たり前になった今、演出はどう変わったのか。
SNS時代において、ネタバレはどこまで許されるのか。
これらは、正解が出る話ではない。だから、結論を出そうとしない。
ただ、「そうなってきている」という感触を言葉にする。
また、映画コラムは、シネマログというサイトそのものを語る場所でもある。
なぜレビューに点数を付けているのか。
なぜ「俺目線」と「モテ男目線」を分けているのか。
なぜ、すべての映画を褒めないのか。
映画ブログを続けていると、作品以外の部分についても、考えることが増えてくる。
レビューを書くという行為自体が、一種の思考トレーニングになっていくからだ。
そうした裏側の話は、考察や内面磨きに混ぜると、少し違和感が出る。
だから、映画コラムという場所で扱う。
このページに並ぶコラムは、完成された意見ではない。
むしろ、後から読み返したときに、「当時はこう考えていたのか」と思えるような、
一時的な記録に近い。
時間が経てば、考えは変わる。映画の見方も変わる。社会の空気が変われば、評価も変わる。
それでいい。変わらない意見より、更新されていく思考の方が、健全だ。
映画は、人生を変えることもある。だが、すべての映画が、そこまでの役割を担う必要はない。
ただ少し引っかかる。少し考えさせられる。少し時代を感じる。
映画コラムは、その「少し」を拾い上げる場所だ。
このページは、完成しない。
ここから先、映画を観るたびに、時代が動くたびに、思考がずれるたびに、少しずつ書き足されていく。
考察に行くほどでもない。内面磨きに昇華するほどでもない。
でも、消してしまうには惜しい。
そんな映画の余韻や、思考の断片を、ここに置いていく。
それが、映画コラムという場所だ。
※この下に、俺が書いたコラムが、時系列で並んでいく。
※分類に迷うものほど、まずはここに置く。